Mindanao State
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本学は、国立ミンダナオ大学(M.S.U.)との姉妹校 (学術提携契約) の調印を行い、フィリピン共和国の政府公認大学の「認定証」を授与されました。


 同国政府の内務自治省が所管する政府公認大学の「認定証」(リゾリューション) 
本学の高等教育活動が、同国当局から評価され、フィリッピン国際学術会議(PIAC)認定の政府公認大学となる。
− 2004年2月21日付 −
「認定証」の全容 (木製枠・シルバー板) 「認定証」へのサイナーズ
本学代表団・フィリピン政府高官・両大学関係者の集合記念写真


「フィリッピン・日本 教育会議」において、本学と国立ミンダナオ大学との姉妹校(学術提携契約)の締結に際して祝辞を述べる1928年生まれのフィデル・ラモス元大統領。 同元大統領は、大統領軍事補佐官、国軍情報部長、国軍参謀次長などを歴任し、参謀副総長を務めていた1986年にエンリレ国防長官やホナサン中佐ら国軍改革派と共にマルコス政権を打倒した。大統領就任期間は、1992年〜1998年であり、現在に至るも軍部に影響力を持ち、グロリア・アロヨ政権(2001年〜2010年)を支えていた。(写真)来賓席の左より、本学の清水前学長・南部環境研究所所長・中野学長。  <参照文献> 津野海太郎「物語・日本の占領」 (平凡社文庫1999年、朝日新聞社1985年)、Teodoro A. Agoncillo, History of the Filipino People (Garotech Publiching 8th edition,1990)
2004年4月16日、フィリピン国際大会議センター

「フィリピン・日本 教育会議」において、フィデル・ラモス元大統領に記念品を手渡す中野学長(当時、副学長)と元航空自衛隊空将・三菱重工業顧問の金子教授。 フィリピンの歴史は、(1)スペイン植民地時代の1565年〜1898年 (2)米国植民地時代の1898年〜1941年 (3)日本軍政時代の1942年〜1944年 (4)米国軍政及び独立時代の1945年〜現在に大別される。第二次世界大戦中の1942年1月、日本軍がマニラ市を占領し、米軍は日本に降伏した。日本軍政当局は、日本軍及び大東亜共栄圏の政策への反乱以外ではフィリピン人を取り締まらず、特定農産物の対米輸出に依存する植民地経済 (モノカルチュア) によって苦しむ人々に土地・食糧等の公平な分配をおこなって救済し、フィリピン人の独立(民族自立)を促した。第二次世界大戦直後は、米国の傀儡と化し、日本の戦争の大義を理解しうる機会に恵まれなかったが、21世紀の現在、「日本の大東亜共栄圏構想に基づく欧米列強の植民地解放戦争は、人道的な国際社会を実現する正義の戦いであった」と、同国の知識人によって認識されている。
2004年4月16日、フィリピン国際大会議センター

フィデル・ラモス元大統領を中心にして、彼のメッセージ・サインである親指を立てる仕草をしての記念撮影。「一致協力して頑張ろう!」という意味がある。 同元大統領は、フィリピン大学及び米国ウェストポイント(陸軍士官学校)を卒業した。同元大統領によれば、アキノ元上院議員暗殺事件(1983年)が、マルコス政権打倒(1986年)を決意させたという。1983年8月、マルコス大統領の政敵だったベニグノ・アキノ元上院議員は、亡命先の米国から3年ぶりに帰国したマニラ国際空港で航空機から降りた直後に射殺された。この暗殺事件で起訴された兵士らは、マルコス政権下で全員無罪になったが、コラソン・アキノ(妻)政権下の再審で16人が終身刑となり、うち3人が獄死、3人が釈放された。最後の10人が2009年3月4日に恩赦で出所したが、「警護を命じられて陰謀に巻き込まれた。暗殺計画は知らなかった」と主張している。真実を知る元空軍大尉は、事件直後に姿を消したが、シアトルで偽名を使って民間航空機のパイロットになったとされ、2005年にあらためて逮捕状が出た。元兵士らは、「彼が捕まれば再審が可能になる」と望みをかけている。軍部が暗殺に関与したことは間違いないが、本当の首謀者が誰で、誰が事前に暗殺計画を知っていたのかは、今も解明されていない。
2004年4月16日、フィリピン国際大会議センター

マニラ市内にあるイメルダ・マルコス元大統領夫人の自宅におけるイメルダ夫人と本学との懇親風景。 本学の清水前学長は、国立ミンダナオ大学のヌーア・J・アバンタス前学長と共に、両学姉妹校の調印に関する報告をおこない、今後の日比両国間の大学関係者による相互協力と友好親善を約束した。この当時のイメルダ夫人は、政争に巻き込まれて下院議員を辞職していたものの国民的人気を保ち政治的な影響力を行使していた。その後、下院議員に返り咲いている。2010年6月、政敵のベニグノ・アキノ3世の政権が誕生して以来、政界の表舞台には現れなくなったという。
2004年4月16日、イメルダ・マルコス元大統領夫人の自宅

イメルダ・マルコス夫人を中心に据えた本学代表団の集合写真。 イメルダ夫人は、米国植民地時代のマニラ市で1929年に生まれ、弁護士の父親の出身地であるレイテ島タクロバン市に移り、その市内にあるホーリー・インファント高校とセント・ポール大学を卒業した。 第二次世界大戦が終結し、フィリピン独立時代の1953年、芸能人を目指して 「ミス・マニラ・コンテスト」 に出場し、この翌年に下院議員のフェルディナンド・マルコスと結婚した。マルコスが1965年に大統領に当選し、大統領夫人となって以来、同国の政治を左右する有力者として世界中のマス・メディアから注目され続けてきた。
2004年4月16日、イメルダ・マルコス元大統領夫人の自宅


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