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神武天皇 十六弁八重表菊紋 五七桐花紋



- 建国記念日に日本国の歴史を考える -




【 1 】 紀元節

1.建国記念日
 2月11日は
建国記念日であるが、 大東亜戦争の終戦以前においては紀元節と呼ばれていた。  紀元節とは、神武天皇の即位を我が国の紀元元年として奉祝する日のことである。  『日本書紀』によれば、神武天皇の即位の日付は「辛酉年 春正月 庚辰 朔」であり、 神武天皇の即位年の「辛酉年」は、『日本書紀』の編年を元に計算すると 西暦紀元前660年に相当し、即位月は「春正月」であることから立春の前後であり、 即位日の干支は「庚辰」である。  そこで、西暦紀元前660年の立春に最も近い「庚辰」の日を探すと、 グレゴリオ暦 (太陽暦) 2月11日が特定される。 なお、「朔」とは新月の日であり、現代の天文学の知識に基づいて神武天皇の即位当時の西暦紀元前660年の月齢を計算すると、 2月11日は新月に当たり、『日本書紀』の記述の正確性は科学的にも裏づけられている。  この特定は、当時の文部省天文局が算出し、暦学者 塚本明毅(1833〜1885)が 精査しておこなわれた。 明治5年(1872年)、 明治政府は太政官布告第342号において、神武天皇の即位をもって日本紀元元年とする旨を定め、明治6年(1873年)の 太政官布告 第344号において、紀元節は2月11日と定め、また、その他の国民の祝祭日が定められた。  さて、 戦後の日本政府は、建国記念日を政府主催の公的な国民行事として奉祝してこなかった。 この現状も、 「戦後レジーム」のひとつだ。 日本建国精神を忘却した「戦後レジーム」を解消すべく、今後とも鋭意尽力していかねばならない。

2.「紀元は二千六百年」と「皇紀2600年奉祝曲」
 ★ 奉祝国民歌 『紀元は二千六百年』  (←ここを
クリック すると聴けます。)

  (1) 金鵄(きんし)輝く日本の 榮(はえ)ある光(ひかり)身にうけて  
     いまこそ祝へこの朝(あした)
     紀元は二千六百年   あゝ 一億の胸はなる

  (2) 歡喜あふるるこの土を しつかと我等ふみしめて
     はるかに仰ぐ大御言(おほみこと) 紀元は二千六百年
     あゝ肇國(ちょうこく)の雲青し

  (3) 荒(すさ)ぶ世界に唯一つ ゆるがぬ御代に生立ちし
     感謝は清き火と燃えて 紀元は二千六百年
     あゝ報國の血は勇む

  (4) 潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて
     世紀の文化また新た 紀元は二千六百年
     あゝ燦爛(さんらん)のこの國威

  (5) 正義凛(りん)たる旗の下 明朗アジヤうち建てん
     力と意氣を示せ今 紀元は二千六百年
     あゝ彌榮(いやさか)の日はのぼる



 昭和15年(
1940年)2月11日、 昭和天皇(1901〜1989)は、人類の福祉向上と万邦の協和実現を祈念して、『紀元二千六百年の勅語』を下賜された。 『紀元は二千六百年』は、当時の近衛文麿(1891〜1945)の内閣二千六百年記念祝典事務局が、紀元二千六百年を奉祝して広く国民から歌詞・編曲を公募して誕生した国民歌である。 連日、NHKラジオで流され、国民の間に「神国日本」の輝かしい歴史伝統を深く知らしめる契機となった。  また、『紀元は二千六百年』とは異なる『皇紀2600年奉祝曲』の作曲は、恩賜財団 紀元二千六百年奉祝会と 内閣二千六百年記念祝典事務局の計画に基づき、 当時の同盟国ドイツに委嘱した。 ドイツの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス(1897〜1945)は、ドイツの誇る有名な作曲家 リヒャルト・シュトラウス(1864〜1949)に作曲を依頼した。 『紀元は二千六百年』とは全く趣の異なるクラシック音楽の『皇紀2600年奉祝曲』も、一度は聴いておきたい。 オペラ調の極めて優美で勇壮な曲であるため、多様な公式行事のBGMとして用いると良いだろう。

 リヒャルト・シュトラウス作曲
「大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」 作品84 (1940年)  
  独語:
Festmusik zur Feier des 2600 jahrigen Bestehens des Kaiserreichs Japan fur groses Orchester
  楽曲構成(15分53秒)
  (1) 海の情景 Meerszene
  (2) 桜祭り Kirschblutenfest
  (3) 火山の噴火 Vulkanausbruch
  (4) サムライの突撃 Angriff der Samurai
  (5) 天皇頌歌 Loblied auf den Kaiser





【 2 】
 神武天皇
 神武天皇とは、日本国の初代天皇のことである。
 天皇という称号が生ずる以前の古代においては、スメラミコトまたは大王(オオキミ)と呼ばれてい た。 712年に編纂された『古事記』においては、神倭伊波禮毘古天皇(カムヤマトイワレビコノスメラミコト)として、720年に編纂された『日本書紀』に おいては、神日本磐余彦火火出見天皇(カムヤマトイワレヒコホホデミノスメラミコト)という国風諡号で記述されている。 奈良時代(710〜794)以降 になってから、神武天皇という漢風諡号が撰進され、今日に至るまで広く使用されている。  さて、ユダヤ人の言語学者ヨセフ・アイデルバーグ(1916〜1985)の 『日本書紀と日本語のユダヤ起源』 によれば、「カムヤマトイワレビコノスメラミコト」とは、ヘブライ語 であり、「サマリアの皇帝、神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味になる。 古代イスラエル王国のソロモン大王(在位:前965頃〜前930頃)の没後に、南朝と北朝の両王国に分裂したが、その北朝イスラエル王国の首都がサマリアである。 そして、北朝イスラエル王国は、紀元前722年にアッシリア帝国によって滅ぼされたが、その後のイスラエル十部族の行方が不明であり、現在のイスラエル共和国政府の「アミシャブ」という「失われた民族調査機関」によっても探求されている。 また、南朝ユダ王国も、北朝イスラエル王国に続いて、紀元前587年、バビロニア帝国(新バビロニア王国)によって最終的に滅ぼされ、ユダヤ人は「バビロン捕囚」となった。 そして、この48年後の紀元前539年、今度は、ペルシャ帝国(アケメネス朝)がバビロニア帝国(新バビロニア王国)を滅ぼすと、首都バビロンで捕囚されていたユダヤ人は解放され、聖都エルサレムに帰還した。 しかし、この時、ユダヤ人の王族を含む大勢が行方不明になったのである。 これら紀元前539年に行方不明になったダヴィデ王朝の男系の末裔である王族を含むユダヤ人が、紀元前722年に行方不明になった北朝イスラエル王国のイスラエル人と合流したことは想像に難くない。 従って、日本の弥生時代が紀元前800年頃よ り始まり、神武天皇の即位が紀元前660年であることを考慮した場合、ダヴィデ大王(在位:前1004頃〜前965頃)を中心として結束した古代イスラエル王国の十二部族と、古代日本列島において大和朝廷を樹立した大和民族との間には、歴史的・民族的・文化的な繋がりがあると考えられ、いわゆる、『日ユ同祖論』を 生物学・言語学・考古学・歴史学・民俗学・動物生態学・比較文化論等の多方面から深く調査研究する必要がある。




【 3 】
 十六弁八重表菊紋
 十六弁八重表菊紋は、天皇家の紋章である。 明治2年(
1869年)の太政官布告第195号により、天皇家の紋章として「十六弁八重表菊紋」が、その他の皇族の紋章としては、「十四弁一重裏菊紋」が公式に定められた。 終戦前は、大日本帝国海軍の軍艦の艦首に刻印され、また陸軍では村田銃以降のすべての 軍用小銃に刻印されていた。 現在においては、在外公館の玄関に菊花紋章が付され、旅券の表紙や国会議員のバッジには「十六弁一重表菊紋」が描かれている。 十六弁菊花紋のルーツを探ると、紀元前2300年頃のシュメール・アッカド王朝時代に建造されたナラム・シン王の戦勝碑に刻まれており、人類最古の文明とさ れるシュメール王朝の頃より十六弁菊花紋を王家の紋章として使用していたと考えられる。 シュメール等の古代文明における文字や紋章は、天上界の神々と地上 界の人間との関係を象徴しており、十六弁菊花紋は、天を照らす太陽神の象徴として、また、世界の東西南北十六方位の象徴であると考えられる。 シュ メール王朝の都であったバビロン遺跡に残る紀元前600年頃に建造されたイシュタル門にも王家の紋章として数多くの菊花紋が描かれている。 さらに、イスラ エル共和国にあるエルサレム神殿のヘロデ門にも十六弁菊花紋が刻まれている。




【 4 】 五七桐花紋
 桐花は、菊花と共に古来より皇室・皇族の紋章である。 聖天子の出現時に現れるとされる伝説上の瑞鳥である鳳凰の宿る樹とされ、
嵯峨天皇 (786〜842)の頃から衣類等に刺繍されるなどして伝承されてきた。  後醍醐天皇(1288〜1339)による「建武の中興」が開始されると、 足利尊氏(1305〜1358)が後醍醐天皇から官位や所領と共に五七桐花紋を賜っている。 また、 室町幕府第15代将軍・足利義昭(1537〜1597) が尾張国の 武将である織田信秀(1510〜1551頃)に五七桐花紋を授け、 それを継承した織田信長(1534〜1582)は自らの裃(かみしも)姿の肖像画に 五七桐花紋を描かせている。 信長の後継者として天下人となった羽柴秀吉(1537〜1598)は、 天正14年(1586年)に太政大臣となり、正親町天皇 (1517〜1593)から 豊臣姓と共に五七桐花紋を賜っている。 かかる歴史経緯から、「政府」を象徴する紋章として広く認識され、明治政府から戦後の日本政府に至るまで、 その調度品や旅券の内側などに五七桐花紋を使用している。